ご愛顧いただきありがとうございました
皆様へ。
これまで、結構たくさんの方に見ていただいたこのブログ。
これからは、福祉の方向けの仕事についてのブログではなくなります。
心の深いところと向き合うような
対面のカウンセリングを本格的に始めました。
それに伴い、こちらのブログでは、
生きづらさを抱える人に少しでも届くよう
いろいろなことを書いていけたらと思います。
当初から、
だいぶ、方向性が変わってまいりましたが、
人は変わるものですから。
皆様、ご愛顧いただきありがとうございました。
対面のカウンセリングにご興味がある方は
ご連絡ください。
対面カウンセリング
コチラは、普通のカウンセリングとは違い、
少し不思議な力を使います。
スピリチュアルカウンセリングです。
ご興味ある方はぜひどうぞ。
理想の支援
皆様、こんにちは、
ののあのあです。
理想の支援に向かって、毎日を積み重ねていると、いつしか道に迷うことってよくあります。
それは、理想の支援が固定の何かではないからです。
福祉に関することだけではなく、世間一般でなんとなく、こうすべきかなぁ、とカタチがあるように思うものは、実はほとんどが流動的でみなさまが想像するようなものではないのです。
今日の利用者様、今日のクライアント様が見られないのに、理想のやり方だけを追い求めていて、そこに何が生まれるのでしょう。
福祉で働く方々が、真面目にまっすぐ働く力とそれを1000%楽しむことこそが、福祉の未来を作ります。
その未来を担うみなさまの、ご要望にお応えして。
お悩み相談所、始めます。
アナタ自身のことの相談、
アナタにまつわる人間関係のご相談、
もちろん福祉の仕事のご相談、
なんなりと承ります。
ご興味ある方は、
お名前とお住いの地域だけ記して
ご連絡ください。
こちらから、折返しご案内を送ります。
nonoanoah@gmail.com
役立たず
皆さま、こんばんは。
ののあのあです。
おかげさまで見てくださる方も、増えてまいりました。ありがとうございます。
アナタは自分を役立たずと感じたことはありますか?
みんな、多かれ少なかれ、感じたことがある気持ちかなと思います。
情けないような、自分にがっかりのような。たとえ、自分を役立たずと感じても、平気な人も中にはいらっしゃると思います。
人それぞれですね。
かく言うわたしは、この役立たずな自分を認めること、人の期待に応えられない自分を見つめることが本当に苦手でした。
こうした方がいい、ああした方がうまくいく、そればかりでここまで生きてきました。
おかげで、小器用にいろいろなことを覚えましたが、当のわたし自身はなんだか自信がないままで、借り物の姿でどれほど褒められても自分のことを褒められているとは思えませんでした。
昔、友人に「ののあのあってさ、人のことばっかりやってるね」と言われたことがあります。
別にけなされてるわけでもないのに、ひどくショックだったのを覚えています。
だからと言って、その日から自分のためだけに生きていきます!とは、そう簡単にいかないもので。
当時のわたしは、抱えている仕事も、プライベートでの案件も非常に多く、まさに「そんなこと言われても、わたしがやらなきゃ誰がやるの!亅と、逆上しているしかありませんでした。
さて、そんなわたしは福祉施設で働きはじめた際、とっても大変な経験をしました。
「人のため」に何かをすることが得意だったわたし、いや、むしろそれしかしてこなかったのだから、障害者福祉の仕事はぶっちゃけオハコの分野だと思っておりました。
ところがどっこい。
働き始めた知的障害を持つ方々の施設では、常識など通用しない、タイマンの世界。
相手をやらなきゃ、自分がやられる、は言い過ぎですが(笑)でも、それに近い彼等の生き様がそこにありました。
わたしは、まずはじめに、素晴らしい諸先輩から「やってあげる」を辞めることを学びました。
人間とは、本当に不思議で厄介な生き物で、誰かにやってもらっているとき、その人はできたはずの「それ」をどんどんしなくていいことにしてしまうのです。
やってもらえるし〜と。
皆さまにも経験があると思います。
実家にいた時は、片づけなんて、洗濯なんてしなくていいから、できなかったのです。
一人暮らしをしても苦手な方もいますが、そういう方は、きっと本当に必要ないのでしょう。
家事ができないという悩みは、一人暮らしすれば大方解決します。
家事ができないから、一人暮らししないのではなく、一人暮らしをしないから、家事ができないのです。
それと同じで、利用者様の中には、できないのではなく、やらないからできないという場合があります。
何かを「やってあげる」ことは、=誰かの「できる」チャンスを奪うことでもあるのです。
生活支援員は、召使いや小間使いではありませんし、母親でも、友人でもありません。
もしも、できたはずのことを、できなくなった方がいれば、それは本人のせいだけではないかもしれません。
周囲がその人から、その役割を奪っているか阻害している可能性もあるのです。
当時のわたしにはとっても大変なことです。なんでも人に「してあげたい」病のわたしは立ちどころに自分の足元が心許ないことに気が付きました。
その時初めて、今までわたしは、人を、都合よく扱ってきたことに気がついたのです。
自分が人の用事で、手いっぱいでいれば、自分の弱さや、自分の情けない部分、役立たずぷりを見なくて済むから、人の苦しみを利用してごまかしてきたのです。
目の前にいる利用者様を、そんな風に、都合よく利用することは決してしてはならないと思いました。
その時から少しずつ、役立たずのままでいる練習をしました。
本当は自分でできることを甘えてできなくなってしまわないよう、わたしはそれはやらないよ。というスタンスを練習するのです。
もちろん、本当に難しいことや、できないことは支援します。
その「相手に本当に必要な支援」を、見分けるチカラこそ、熟練の経験や知恵や関係が物を言うことがわかってくると、障害者福祉の仕事が、一挙におもしろくなりました。
前に別の記事で、仕事の内容について詳しく書いたものがありますが、障害者施設で働くことは、今日がすべてなのです。
今日、丁寧にできなくては、明日、今日より丁寧に支援することは不可能なのです。
やっている本人が、気がついているかはわからないです。
不思議なことですが、そうなのです。
このときの学びは、私にとって、大変に素晴らしいものでした。
そのことを最近になって、ふ、と思い出すのです。
同じように、悩んだり、苦しんだり、戦っている方がいるのなら、大丈夫と伝えたいなと思うのです。
アナタは、役立たずで良いのです。
相手に障がいや病気があっても、すべて「やってあげる」必要は決してないのです。
それは、相手が誰であっても同じだと思うのです。
相手の方が強そうでも、賢くても、美人でも、偉そうでも、実際に偉くても、お金があっても、なんでも。
大事なのは、アナタがそこで、彼等を自分で目撃することです。
そして、アナタという存在を彼等が目撃していることも同様に、とても重大なことなのです。
「相手と向き合う」ことをあきらめなければ、そこには必ず自分と向き合う時間が待っています。
わたしたちは、目の前の人から、自分を見つけるヒントを頂いて生きているのです。
ののあのあ
障害者 と 健常者
はじめましての方ははじめまして。
こんばんはの方はこんばんは。
来てくださってありがとうございます。
さて、本日のタイトル
障害者 と 健常者
コレ、誰が決めたコトバでしょうね。
どの観点から言ったコトバでしょう。
子どもの頃、皆さん「人権」の授業を受けませんでした?
差別はイケマセンという授業を受けたとき、初めてこの世に差別という概念があることを刷り込まれました。
人と違うことで、人の可能性を奪ったり、相手を軽んじたりする行為、さらには、そのことに起因した暴力的な行為(もちろん言葉の暴力も含む)を差別と呼ぶようだ、と知りました。
イケマセン、イケマセン、と言われれば言われるほど、なんだかそういう存在自体が面倒に、煩わしく思えたことを強烈に覚えています。そう言われるまでは、意識もせずに一緒に楽しく遊んでいたのに、です。
どうして、そんなことをわざわざ授業する必要があるのだろう。
世界には、無数にハンディキャップを抱えた方々がいて、皆様、それぞれに課題と、問題と、悩みを持っています。
それから、表面的には一応、ハンディキャップがないとされる人々も同じように、それぞれ、課題や、問題、悩みを抱えていますね。
当然です。
それが生きるということだからです。
課題がない人間、問題がない人間、悩みがない人間がいないのと同じように、誰一人として、同じ人間もいないのです。
だから、面倒がっていないで、煩わしがっていないで、腫れ物にふれていないで、知る努力をしましょう。
言わずもがなですが、お互いに、です。
思うに健常者による障害者差別は、不可抗力的な故意にではないものがよくありますが、障害者による健常者差別は、傾向として大きな恨みの意思を伴うことが多いようです。
もう、いいです。
アナタの隣にいる人がアナタでない人であるように、全世界の誰も、アナタでない人以外に肩書などないのです。
傷つけあって、距離をとって、苦しみあうのはもう終わりです。
これまで見てきた障害者のほとんどは、そのハンディキャップそのものよりも、それを持つことによる様々なマイナス経験から来る心や、思考の歪みが、本人を1番苦しめていました。
ね。同じです。
健常者であっても、1番の苦しみは心の中にあるのです。
違うことを認めて、受け止めて、許して、新たなステージにいくために必要なことをココで発信していきます。
優しいアナタには、きっと届くはずです。
ののあのあ
障がい者支援で苦しんでいる人たちへ
はじめましての方も、何度か来てくださった方もこんにちは。
まずは、あなたに出会えたことを感謝いたします。
読んでいただけて心から嬉しい。
この記事はきっと、たくさんの、必要な人の元に届くと思います。
私は、まったく熱心なブロガーではありませんので、とてつもない動機が無い限り基本的に更新が滞ります。
でも、なぜかこのブログには、一定数の読者様がいて(アナタです。ありがとうございます。)その読者様方から感じるエネルギーは静かで、でも何か優しいろうそくの灯のようなエネルギーなのです。
それは、まさしく福祉という分野に携わる人間の(当事者も含む)情熱に似ています。
今までの世間は激しく燃える炎でなければ、見る価値がないという在り方でした。
これからは、変わります。
福祉も変わっていきます。
まさに、今苦しみの中にいるアナタこそが、その現状を変えていく最初の一人になるのです。
皆さんにメッセージを送る前に少し私の話をさせてください。
8月、私はこどもを授かったことを知りました。
働いていた障がい福祉サービス事業所も非常勤に代えてもらい、予定していた舞台出演をあきらめました。生活や環境が一変し、あらゆる不安、あらゆる感情に襲われましたが、わたしは本当に幸せでした。
夫を愛しています。
周囲にも恵まれ、両親も、義理の両親も、職場の上司や同僚、演劇の先輩方や仲間、大切な友人たち、みんな、たくさん迷惑をかけたというのに、笑って祝福してくれました。感謝の心でいっぱいで、そしてなにより、おなかに来てくれた赤ちゃんのことが、本当に、いとおしくてなりませんでした。
あらゆる愛に囲まれて、困難も乗り越えていけました。
10月、赤ちゃんに病気がみつかり障がいをもって生まれるかもしれないと言われました。悩みました。考えました。夫婦で、話し合い、泣き、罵り、意見をぶつけ合いました。
私はたくさんの障がいがある方に出会ってきました。
障がいがある方について、見つめ、考えてきました。
そして、障がいがあることは、幸せや不幸せを決める要素ではないと強く思っていましたし、今も思っています。
ですが、私は今回おなかにいた赤ちゃんをあきらめることにしました。
それは、生まれてくる息子が不幸だとかかわいそうだと思ったわけではありませんし、面倒を見る自信がないわけでも、ありません。
ただ、現状、障がいを持つ人は、思うように生きられないのです。
その事実だけが、ありました。
苦しまなくてもよい苦しみが、生まれる前から山ほどあるとわかってしまっていたのです。
苦しみや、悲しみがありすぎるのです。
私は、息子を愛してます。これからも一緒に生きていきます。
それは、わかっています。
だから、その選択をしました。
親として、この子のために、一番苦しい判断を夫婦で背負っていくことを決めました。
だけどやっぱり、この世で、一緒においしいものを食べたり美しいものを見たり、泣いたり笑ったりする姿を見たかったと、そう思うのです。
わたしには、それができました。それを選ぶこともできました。
でもそれは、簡単なことではありません。落ち着いて家族で普通に過ごす生活に向かう準備が私たち夫婦にだけあったとしても、それは難しいことなのです。
それでも親ならば、その選択をすべきだったのでは、と考える方もおられますね。
よければ一つ深呼吸してください。
わたしは、議論をしたくてこの事を書いているのではありませんので、この場では深く言及しません。
アナタはアナタの意見をしっかりとお持ちになっていてください。
それでいいのです。
子どもとは、地球の未来です。
親がはぐくむだけではなく、地球がはぐくむのです。
周囲の人間、周囲の環境がはぐくむのです。
その準備がまだ、整っていないことに気が付いたのです。
わたしは深い悲しみのなかでたくさんの謝罪を息子にしました。
それと同時にもっとたくさんの感謝と愛を贈りたい。そう思いました。
そのことに気が付いたときから、毎日、いろんなことを考えました。
そして、私にできることがなにかあれば。
この経験がなにか形になればと思って、いま皆さんに、メッセージを書いています。
福祉という分野で働く人の苦しみは、常に深いものがあります。
あなたもそのおひとりなのでしょうか。
だけれど、どうしてその苦しみはアナタの元にあるのでしょうか。
日々の支援の中で、悩み、悲しみ、驚き、そして心を震わせている皆さん。
「福祉は誰にでもできる」「福祉はきつい」「福祉は大変」
世間にそんなことを言わせていていいのですか。
アナタにしかできない仕事です。
だから、アナタは苦しんでいます。
私は、きっとアナタのサポートができます。
アナタの今の苦しみを教えてくれませんか。
匿名でかまいません。
仕事に直接かかわらなくてもかまいません。
私になにか言いたいと思う方がいれば、ぜひ、教えてください。
私が、皆さんのために、それから、福祉の未来のために、できることをどうか、ご教授ください。
nonoanoah@gmail.com
よろしくお願いいたします。
最後までよんでくださってありがとうございました。
出会いに心から、感謝いたします。
nonoanoa
言われたくないこと
おはようございます。
開いてくださってありがとうございます。
nonoanoa です。
今日はなんとなく「言われたくないこと」について、朝から考えていたので、せっかくなのでブログに書きながら整理しようと思います。
皆さんには、ありますか?
なんとなく言われたくないこと。
言われるとあれ?
なんか嫌な感じだな~と思うこと。
昔
何かで読んで、
自分にもかなり実感があるのですが、
言われたくないこと=自分がそう思っていることだったりしませんか?
いわゆる
図星だな~ってヤツです。
今日のわたしは「これ、片付けといてよ」が言われたくないことでした笑
言われた瞬間「ムッ」として、「なんでわたしが?」って思っちゃったんですよね~。
でも、わたしが毎朝やってることなんです。笑
で、いつもやるときは、言われる前に終わってること。
それを指摘されたので、「いつも、やってる時には何も見てもないクセに」という気持ちと、「言われなくてもやります」という気持ち。
あとは、「やっぱり気になったよね。朝から不快にさせてゴメン」って気持ちが入り交じって
なんか嫌な感じ~になりました。笑
そのあと、プリプリ怒った気持ちで、(というより半分へそ曲がりで)あーじゃ、こーじゃ、言っていると、ピシャリ「調子に乗るな」と言われてしまいました。。。
最近よく言われる「調子に乗るな」。
すごく嫌な気持ちになるのは、たぶん自分が自分にそう感じているから。
なんでなんだろ~。
別に調子に乗ってたっていいのに~笑
わたしって、クソがつくほど真面目だな~って思いました笑
調子に乗ってたら、足元をすくわれた経験でもあったのかな?笑
思い出せないよ~、どれだよ~。笑
まあ、いいや。
書いてたらやっぱりスッキリしてきたし。
皆さんも、言われたくないことありますか?
嫌な気持ちを引きずって、重い1日を過ごすくらいなら、ちょっと時間を割いて、あれ?なんで嫌なんだろうって考えてみるとサッパリしたりします🙆
大抵は、人が代弁してるだけ。笑
特に親しい、愛する、いちばん言われたくない(笑)人たちが。
相手じゃなくて、自分が思っているんだな、ってわかったらあまり怖くありません。
あとは深呼吸して、笑顔に戻るだけ。
さ、今日も1日楽しむぞ!
nonoanoa
めぐる運命
ずいぶんと、ご無沙汰しています。
皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今も見てくださっている方がいることに心から感謝します。
実は私事ですが、この空白期間の間に、4年ほどお付き合いしていたパートナーとの間に新しい命を授かりました。
予定は4月なので、まだ安定期に入ったばかりです。
結婚準備や、出産のための準備に追われ、もろもろ未だに落ち着かない日々です。
昨日までいなかった命が、今日自分のお腹にいるという奇跡は、本当に素晴らしい経験で、これからの未来を想像すると不安や焦りもありますが、その何倍も何千倍も、わたしのところへ来てくれた感謝と、周りの皆様の暖かいサポートへの感謝、そして何よりパートナーへの出会いからすべてのことに対する感謝で、胸がいっぱいの毎日です。
このようにおかげさまで元気よく過ごせている日々のなかで、それでも、試練は誰の身にも訪れますね。
タイトルにもあるように、運命というのか、それとも宿命なのかはわかりませんが、人の生まれてからのシナリオとは、本当に不思議で、神秘的なものであると実感するできごとがありました。
赤ちゃんが二分脊椎であるかもしれないと診断されたのです。
詳しくは検査中なので、まだわからないのですが、もしかしたら我が子は、いずれ障がいを持つことになる可能性が人よりも高く生まれるかもしれないようです。
このブログを読んだことがある方は、ご存知の通り、わたしは仕事として障がい者福祉にずっと関わってきました。
そして、この度、父となるわたしの愛するパートナーも、事故で身体障がいを負っています。
形は違えど、通常よりも、ずっとハンディキャップをもつ人々のことをたくさん考えてきた二人の元にやって来てくれる命が、障がいをもつかもしれないということ。
まずは、その事実に、わたしは巡り合わせというものを感じずにはいられませんでした。
週数が若い段階での、診断。
医師からは、「どうされますか? まだ、中絶も可能ですよ。」の言葉。
わたしたちの意見は完全に分かれました。
わたしは、「産む」。
彼は、「もし、重度の障がいであれば、あきらめてほしい」。
彼の意見は、彼ならではの考えだと感じました。
彼が当事者として、障がいを持った人々の苦しみが、痛いほどわかるからの覚悟のある言葉でした。
親だからこそ、その苦しみを味わわせるぐらいなら、自分たちが決めてあげたい、という切実な訴えでした。
わたしは、当初、何が何でも産みたいと思っていましたが、話し合いを進めるうちに、頑なに自分の意見に意固地になってはいけないと、思うようになりました。
様々な想像をしました。
様々な話をしました。
様々な涙を流しました。
でも、やっぱり、この子が苦しむばかりの日々か、幸せに笑う日々かを選ぶのはわたしたちではなくてこの子なんじゃないかなぁと思いました。
その一点において、障がいの有無や、病気の有無は、何も影響を及ぼさないのではないか、と。
そして、わたしたち二人なら、この子の笑顔のために、わたしたちができうる限りのサポートをきっと選択できるし、寄り添っていけるんじゃないかな、とも。
揺れに、揺れる心を、それでも、固めてくれたのは、やっぱり今まで出会ってきた、障がい者と呼ばれる方々の、屈託のない笑顔や、何気ない日常でした。
そうか、わたしは、この決断のために、1人の母として命を生み出すことの本当の責任を考えるために、障がいをもつ方々との日々を通して経験してきていたんだなぁ、とつくづく思いました。
全ては、つながるし、これからもつながっていくのですね。
まさに、めぐる運命。
そのことがわかった時、全く迷いなく、覚悟をもって、彼に「わたしたちなら、大丈夫だから。そして、この子はわたしたちの子だから、この子もきっと大丈夫だから。気休めに聞こえても、わたしは信じたい。もし、苦しく、辛い日々が待っていてもその何倍も何千倍も、幸せが待っているよ。」と伝えました。
最初は、なかなか納得できない様子だった彼が、ずいぶんと時間をおいて、「赤ちゃんのことは、経過を見守っていこう」とポツリと言いました。
わたしは彼のそのぶっきらぼうな言葉に、平行線だった議論を乗り越えて、彼とわたしと新しい命と愛しいペットで家族としての未来を歩もうとしていることを感じました。
そうか、家族って、こうやって少しずつ家族になっていくんだなぁ。
めぐる運命に、惑いつつ、立ち向かいつつ、そして、何より逆らわずに、しっかりと受け止めて生きていくことも、やはり、障がいをもつ方々がわたしに教えてくれたこと。
やっぱり、わたしの方が一方的に支援していただけではなかったのですね。
少しでも、この素晴らしい事実が、誰かの耳に届きますよう、久しぶりに筆をとりました。
長々と読んでくださってありがとうございます。
また少しずつ書きたいときに、書きたいこと書いて行けたらと思います。
nonoanoa