障害者 と 健常者
はじめましての方ははじめまして。
こんばんはの方はこんばんは。
来てくださってありがとうございます。
さて、本日のタイトル
障害者 と 健常者
コレ、誰が決めたコトバでしょうね。
どの観点から言ったコトバでしょう。
子どもの頃、皆さん「人権」の授業を受けませんでした?
差別はイケマセンという授業を受けたとき、初めてこの世に差別という概念があることを刷り込まれました。
人と違うことで、人の可能性を奪ったり、相手を軽んじたりする行為、さらには、そのことに起因した暴力的な行為(もちろん言葉の暴力も含む)を差別と呼ぶようだ、と知りました。
イケマセン、イケマセン、と言われれば言われるほど、なんだかそういう存在自体が面倒に、煩わしく思えたことを強烈に覚えています。そう言われるまでは、意識もせずに一緒に楽しく遊んでいたのに、です。
どうして、そんなことをわざわざ授業する必要があるのだろう。
世界には、無数にハンディキャップを抱えた方々がいて、皆様、それぞれに課題と、問題と、悩みを持っています。
それから、表面的には一応、ハンディキャップがないとされる人々も同じように、それぞれ、課題や、問題、悩みを抱えていますね。
当然です。
それが生きるということだからです。
課題がない人間、問題がない人間、悩みがない人間がいないのと同じように、誰一人として、同じ人間もいないのです。
だから、面倒がっていないで、煩わしがっていないで、腫れ物にふれていないで、知る努力をしましょう。
言わずもがなですが、お互いに、です。
思うに健常者による障害者差別は、不可抗力的な故意にではないものがよくありますが、障害者による健常者差別は、傾向として大きな恨みの意思を伴うことが多いようです。
もう、いいです。
アナタの隣にいる人がアナタでない人であるように、全世界の誰も、アナタでない人以外に肩書などないのです。
傷つけあって、距離をとって、苦しみあうのはもう終わりです。
これまで見てきた障害者のほとんどは、そのハンディキャップそのものよりも、それを持つことによる様々なマイナス経験から来る心や、思考の歪みが、本人を1番苦しめていました。
ね。同じです。
健常者であっても、1番の苦しみは心の中にあるのです。
違うことを認めて、受け止めて、許して、新たなステージにいくために必要なことをココで発信していきます。
優しいアナタには、きっと届くはずです。
ののあのあ